
Q.息子 A.マスター
あるネット記事をみて、息子はもやもやしたといいます。その時のセッションです。(これは数年前のセッションです。)
Q.今述べたように、私はネット記事で強い違和感を覚えたわけですが、正直言ってそれをうまく
言葉にできません。何に疑問を持ち、何に憤っているのか、私自身わからないのです。ただ、漠然と
モヤモヤする。我儘な言い分ではありますが、まずはその正体を教えてもらえませんか?
A.いいでしょう。あなたの違和感の正体。不快にさせたもの。それは『軽んじられている。』という
思いの現われでしょう。
Q.軽んじられている?
Q.そうです。命を軽んじていることへの憤りです。
A.今はまさに、時代の転換期とも言えます。今まで、度外視してきた命の議論に、私たちは半ば
強制的にその合議の場に立たされています。だから、今まで見え隠れしてきた問題が浮き彫りと
なってきています。もう目を背けることはできません。今、この時期、私たちは、命との向き合い方
を考えなければいけません。
Q.ええ。まさに知りたいところです。私たちがどう向き合うべきか。先ずは伺いたい。
私たちは元から命に軽薄な生き物なのでしょうか?ここは明らかにしたいのです。
そのようにできているのだと言われたら、それを認めざるを得ないですから。
A.いえ。私たちは命は尊ぶものであると知っています。
もともとそれは、表面的な理解ではなく、感覚的に十分な理解をしていました。
ですが、私たちがその知恵を失っていきました。
その原因は様々あります。一つは、生命の誕生と死を見る機会を失ったことが挙げられます。
Q.誕生と死ですか?
A.そうです。従来私たちは、家族や集落といった集団の中で、生命の誕生、そして死を経験しました。
父と母は、子供の誕生の大いなることを知り、子供は兄弟や仲間の誕生の大いなることを知ります。
そして、祖父母、父、母らが亡くなりゆく過程をしっかり見据えるのです。
その連鎖の中で、私たちは命とは何かを理解していきます。
ですが、だんだんとその連鎖は断ち切られるようになりました。
生命の誕生と、生命の死に関わる機会がほとんど失われていったのです。
それは、歴史や私たちの今の生活からも容易に理解できることだと思います。
そして、生死を遠くに感じるようになり、私たちの中からも関心が薄れていきました。結果、
生まれること、死ぬことが現実味のないものになってしまい、軽薄さにつながったのです。
Q.命と接する機会ですか・・・。確かに、ほとんどありませんでした。しかし、戦争などはどうですか?
私は生死にかかわる機会もなくなったわけですが、少なくとも、戦争や、命を懸けた戦いといったものも
遠のいていたわけです。争いの絶えなかった歴史を見れば、進歩したとも言えます。
その意味では、人は命にもっと軽薄であったとも解釈できるのではないですか?
A.果たして、本質的な進歩をしているのか。というのは、また違った解釈があるでしょう。
ただ、争いの要因となっているものの1つに、『教育』があると知っておくべきです。
Q、ほお、教育ですか!
A.そうです。正しくは『教育』ではなく、『洗脳』です。
教育という名のもとに大人たちにとって都合の良い人間をつくりあげるために。
私たちは、誰かにとって都合の良い正しさの植え付けをされたのです。
それは非常に歪められた広義です。
命を差し出さなければならない。
それが正しいことだと教え込まれたのです。
あなたの命が大切であっても、それさえも霞むような偉業があるのだと。
価値のないものにさえ、命の価値は負けるようになったのです。
ただ、私たちは、根源的に命を軽視する生き物ではないので、安心してください。
Q.そうですか。それはまあ、良かったというべきですね。ただ、もはや人の根源ともいえる
ほどに根付いてしまっているような気はします。私だって、命よりも優先すべき偉業があると、
無意識的、いやかなり意識的に思うわけですし。
A.それ自体が決して誤りということではありません。ただ、本当に価値あるものを理解するには、
命の仕組みを理解しなければいけません。私たちが、なぜ生まれ、そしてなぜ死にゆくのかを。
そうでなければ、固着した概念やエゴに打ち負けるでしょう。
Q.なるほど・・・。その仕組みというのは・・・。今の私にはわからない気がするので、また後日
といたします。もう一つ質問があります。
ちょうど、『教育』というテーマに私自身驚いたばかりですが、だとすれば、聞かなければならない。
どのような教育を為すべきか。命の軽薄さを少しでも和らげるためにできる教育とは何か?
教えてください。