ここまでのお話 ヒプノチャネリングのきっかけ1(点が線になっていく)
思い返せば、このガストン・ネサーン氏を訪ねる旅、ここまでにも多くの点があって繋がってきました。
ここに至るどの点がなくとも、線になることがないので不思議です。
徳島で生まれ育った私が、札幌にいなければ、この出会いがなかったわけです。
徳島で18歳まで育った私は、それ以降、あちこちを転々としていました。
愛知、中国(内モンゴル)、愛媛、東京、神奈川、埼玉、札幌、静岡、徳島・・・。引っ越し回数は40回を超えてしまいました。
ヒプノチャネリングに出会ってからは、もっと転々と、ハワイ、オーストラリア、マレーシア、タイ、神奈川、岡山、大阪、徳島・・・。そして
今、また神奈川に戻ってきました。
私の息子は年齢より転居の回数が多いのです。
この環境でよく育ってくれたなと思います。まるで遊牧民です。
話を戻します。
このカナダでイーハトーヴクリニックの萩原優先生に出会いました。
それまでに私は、ブライアンワイス博士の『前世療法』を読んでいたこともあり、
初めて萩原先生にお会いした時も、知ったかぶって、ワイス博士のことを萩原先生に話していました。
後で知ったら、萩原先生はワイス博士から催眠療法を学ばれておられているのに、本で読んだだけの私が
張り切って話していて、はずかしいです。
萩原先生はそんなこと言わずに何も知らないふりをして、『そうですか、そうですか。』
とニコニコ私の知ったかぶり話を聞いてくださっていたのです。
さすがですね。
研修の最後の日、参加者みんなで夕食を食べにいきました。
そのお店ではショーがあって、子供も私も大いに楽しみました。
その時、萩原先生がみなに催眠術を見せてくださいました。
たまたま、隣に座った私に催眠術をかけてくださったのです。
初めての体験でしたが、すっかり催眠術にかかった私は、フォークをみつめて
フォークが大好きになって、決して手離すことができなくなったのです。
とても興味深い体験でした。頭では分かったつもりなんです。でもなにか感情のようなものが
フォークを手放すのを嫌がるのです。
よくテレビショーであるような催眠術が、実際自分に起きました。
ただ、考えていたより、催眠術は自分ではわかっているんだと思いました。
目を開けられなくなるとか、催眠術にかかっている認識はあるのだけれど
かかっていたほうが心地よい、そんな感じでした。
だから、内心かかりたくないとおもっていたら、かかることはないのが催眠術かなと思います。
どこかで、かかったほうが面白いかなと、身をゆだねるとすんなり催眠に入ると思います。
ヒプノチャネリングも同じです。
心をオープンにして身をゆだねる。そうすると、どんどん展開していきます。
私は被暗示性がつよいタイプらしいです。
カナダからの帰りの飛行機の中で、萩原先生が私に催眠療法をかけてくださると仰ってくださいました。
私は長年、母との関係に悩んでいました。
萩原先生が『何をみたいですか?』とお聞きくださったとき、真っ先に一番知りたかったことは
過去世での母との関係でした。
人生の選択で私はいつも難しいほうを選ぶ癖がついていました。
この苦悩は、幼少期からの家庭環境にあるのだろうと、私は考えていました。
ここまでに前世がなければ、とうてい説明がつかないような体験をしてきて、
前世や目に見えない世界を理解しつつあった私は、この出会いははじめから用意されていたかのような
そんな機会だとおもいました。